12月半ば
気がつけばもう12月。
振り返ってみると、今年の10月は私にとって大きな出来事が重なった特別な月でした。
電子書籍、『夢を叶えるライフスタイル』ペンネーム岸本結愛でリリースしたのも10月でした。大きな出来事の中で、ブログに書けていなかったことを思い出しました。
これまで“学ぶ側”だった法華経勉強会で、“説く側”の役割をいただいたこと。
年の初めにその役目をいただき、そして10月にもまた、お役をいただく機会が巡ってきました。
ちょうどその前には、体験説法で自分の人生を語る機会もありました。
「私の内側にある力を、次のステージへ押し出してくれた転機」
だったのだと深く感じています。
自分の経験を語り切った後だったからこそ、
「学びを伝える」という勉強会での説法は、これまで以上に前勉強もしました。
前回に説いたのは
説いた内容:「五百弟子授記品第八」
この章には次のような話が記されています。
- 多くの菩薩の物語
- 自分の衣に宝を持っていることに気づかず、貧しい暮らしを続ける人々の例え
- その宝に気づくことで、善い行いへとつなげていく姿
ここでいう「宝」とは仏性のこと。
誰もが仏性を持っているのに、それに気づかないまま過ごしてしまうことがある。
しかし、気づけば誰でも善い行いにつなげていける――そのことを改めて学ばせていただきました。
です。今回は
説いた内容:「従地涌出品第十五」
ここでは、民衆を救うために他国土から菩薩が我こそは、民衆を救います、と申し出てきます。しかし、釈尊は断るのです。そして、現実世界で修行をしていた菩薩にお願いしたい、と釈尊はおっしゃられました。すると、地面を突き抜けるばかりのとてつもない力で現実世界で修行をしていた菩薩が出てこられ、現実世界を救う力を担うことになるのです。
“他国土の菩薩は立派であっても、この世界の苦難を実際に生き抜いてきたわけではない。だから、娑婆世界の民衆を深く救う役割は託せない”
これが、法華経における釈尊の判断だと解釈されています。
◆ 1. 娑婆世界は「もっとも厳しい修行の場」だから
法華経では、
娑婆世界(私たちの現実の世界)こそ、苦難が多く、忍耐を要する特別な世界
と位置づけられています。
そのため、ここで生き、ここで悩み、ここで苦しんできた者でなければ、
ここに生きる人々の心の痛みを深く理解できない、と説かれています。
つまり:
✔ 現実世界の苦しみ=民衆の実感
✔ その苦しみを知っている菩薩=地涌
✔ その苦しみを知らない菩薩=他国土(他世界)からの菩薩
という構造が生まれます。
◆ 2. 他国土の菩薩も偉大。しかし「適任ではない」
従地涌出品第15では、他の国土から無数の菩薩が来て
「私たちが法華経を弘めましょう」と申し出ます。
そして釈尊は明確に言います:
「必要ない。
この娑婆世界には、すでに私の真の弟子が地下に住んでいて、
未来に法華経を弘めるのは彼らの役目である。」
ここで釈尊は、
能力が低いからではなく
外見が劣るからでもなく
“民衆の苦しみの実感を共有していないから”
という理由で「適任ではない」と判断したと読めるのです。
◆ 3. 民衆を救う者は「民衆の中」から現れるべき
これは仏典に共通する深い思想でもあります。
病気の苦しみは、同じ病を理解した者がもっとも寄り添える
貧しさや孤独は、それを知る者にしか本当の意味で見えない
混乱の世界は、その中で生き抜いた者だからこそ導ける
法華経の精神は、この考え方を極めて強く表現します。
つまり:
✔ 民衆をもっとも救えるのは、民衆の苦しみを知る者
✔ 娑婆世界で修行する地涌の菩薩こそ、その代表
という強いメッセージが込められています。
従地涌出品第十五を読みながら、私は「なんて現実的な教えなんだろう」と深く感じました。
現代でも、“善いことは頭で考えるだけではなく、実際に行動してこそ意味が生まれる” とよく言われますよね。まさにその通りだと思います。
どんなに立派な菩薩でさえ、考えるだけで満足してしまうこともある。
でも、民衆が困っている現実を目の当たりにすると、「動かずにはいられない」。
その瞬間こそが、真の力が湧き出る時なのだと気づかされます。
私自身、ひとりの時間も好きですが、ありがたいことに、仕事や地域など「実践の場」が与えられています。
その中で日々、学び、動き、試されているのだと実感しています。
地涌の菩薩の姿を知り、
“現実の中でこそ、力は磨かれ、使命は輝く”
というメッセージに、私は大いに納得しました。


